教えることに従事する人間は一生「勉強中」の身でなければならない

こんにちは、シャトルサークル管理人(@shuttle_circle)です。

ぼくはバドミントンの指導が仕事の1つになっています。

バドミントンのコーチをやりはじめて3年になりますが、まだまだ勉強することはたくさんあります。

ところでこれは持論なんだけど、バドミントンに限らず、何かを「教える」人は一生勉強中の身でなければならない。

自らを「智者(ソフィスト)」と称することなく、終生「愛智者(フィロソフォス)」でなければならない。…古代ギリシャの哲学者プラトンならきっとそう言うでしょう。

分野はバドミントンではありませんが、国語教育に50年間携わってこられた大村はまさんも、同じようなことを言っています。

今回はそんな大村さんの『新編 教えるということ』という著書をところどころ引用しつつ、「教えることに従事する人は一生勉強中の身でいなければならない」ってことを書いていこうと思います。

常識は過去からしか生まれない

誰かを指導する立場に立ったとき、手持ちの指導メニューの数は限られています。その多くは自分が受けた教育をベースにしているはずです。

たとえばバドミントンであれば、自分が選手時代にやっていたメニューをそのままもってくる…みたいなことですね。

しかしいつまでも昔ながらのメニューをやっていていいんでしょうか?それがもたらすのは停滞です。停滞しているものは必ず新しいものに取って代わられます。

スペインはオランダに、オランダはイギリスに、海上貿易の覇権を明け渡しました。

真空管ラジオはトランジスタラジオに、主役の座を明け渡しました。

野球界なんて守備の常識がいつの時代のものなんだってぐらいなら古いものもあったりします。桑田真澄さんなんかはそのことを再三指摘していますよね。

  • いつでも3塁線をしめるの?三遊間をしめなくていいの?
  • 逆シングルでとってもいいよね?いつも回り込まなくちゃダメなの?

時代は刻一刻と変わります、それはバドミントンでも同じこと。女子シングルスなんて10年前と随分変わったように思います。

バックサーブから入るスペインのマリン選手や、ショートサーブやフリックサーブを多用するインドのネワル選手などが上位に顔を見せるなんて、2007年の時点では考えられないことだったでしょう。

教える立場にある人は常に探求的な態度になっていなければならない。教える人が停滞していてはどうしようもない。

これは重要なことなんですが、常識は過去からしか生まれません。

常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。

出典:三木清『哲学入門』33頁、岩波新書、1940年。

しかし教員が育てるのは未来の担い手です。つねに目を未来に向けて探求しなければなりません。

かならず教材は新しく発掘して使います。だれも使ったことがない、教科書などにはもちろん載っていない、そういう新しい教材を用意します。方法も、自分として今まで一度もやったことのない方法を開拓してやるわけです。

出典:大村はま『新編 教えるということ』30頁、ちくま学芸文庫、1996年。

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研究することは「先生」の資格

教員は勉強中の身でなければならないというのは、こうした実利だけの問題ではありません。

子供と同じ土俵に立っていなければ、教師と子供はもはや別世界の住人になってしまうのだと言います。

なぜ研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは、「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。…(中略)…一歩でも前進したくてたまらないのです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている、その塊が子どもなのです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず、子どもと同じ世界にいない教師は、まず「先生」としては失格だと思います。

出典:大村、28頁。

大村さんの口ぶりは穏やかですが、言ってる内容はけっこう辛辣です。

もう四十幾年も教員をやっていれば、かっこうよくやりたければ、何でもやれます。およそ困ることはないといえばいえるでしょう。どんな古い方法でも、今までやった方法ででもよかったら、すぐにでもやれます。
けれども、それでは老いてしまうと思います。それは精神が老いてしまうことです。未来に対して建設できないなら、私は、さっさとやめた方がよいと思っています。

出典:大村、30頁。

長い間指導をしていれば、手持ちのメニューなんてのもいくつかあるでしょう。バドミントンの指導を始めて3年のぼくですら、手持ちのメニューはそれなりにあります。

そのメニューをやることで、子供の側だって得るものもあります。当座はそれでなんとかなるでしょう。

それでもフロンティア精神を忘れない。その態度こそが教師たる資格なのだと思います。

研究を失った教師というのは、子どもとはぜんぜん違った世界にいる人です。研究の喜びと苦しみを知らない教師は子どもとは違った人です。だから、どんなに優しい声を出したからといって、子どもの気持ちをつかめるものではありません。

出典:大村、31頁。

ぼくは幸いなことに、身近に「先生」がいました。ぼくがコーチに行ってるジュニアチームのコーチたちは、過去に大きな功績を成し遂げた人ばかりです。

メニューは、手に変え、品を変え…同じ課題に取り組んでいても、子供たちが気持ちの中でマンネリ化することのないように工夫されています。それが本当にすごいなあといつも思います。

逆に、停滞して、偉そうにふんぞりかえっている大人もいます。しかし自らが探求を怠っているのであれば、いくら実績のある人であっても職業としての「先生」は失格だということになります。

職業人たれ

職業としての教師は、子どもの力を最大限引き出してあげることが求められます。

教えたことがうまく伝わらないのは、本当に子どものせいでしょうか?

与えるべきものを与えて終わりなら、そもそも教員なんて必要ありませんよね?

「わたしはいつだって未完成」と言い聞かせて、たくさん探求していきたいものです。


当サイトのコンテンツは永遠に未完成です。

教えることに従事する人間は一生「勉強中」の身でなければならない

バドミントンのプレイヤーやコーチと「相互にやり取り(シャトル)」する「場(サークル)」にしたい。そんな願いを込めて作ったサイトです。

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ABOUTこの記事をかいた人

1992年生まれで、大阪府出身・在住。バドミントンのプレー歴は13年。指導歴は4年。(公財)日本体育協会の公認上級指導員(バドミントン3級)です。小学生から大人まで、男女問わず初心者から中級者を対象としたバドミントンの指導を仕事の1つとしています。(→さらに詳しく